ジョン・コラピント著「ブレンダと呼ばれた少年」について

ブレンダと呼ばれた少年 厳密には、これはインターセックスについての本ではない。しかし、現在行なわれているようなインターセックスの治療を確立させる契機の1つとなった有名な症例について、長く隠蔽されてきた事実を明らかにするものである。1965年にカナダのウィニペグで生まれたブルースとブライアンの双子は、ごく普通の身体的特徴を持った男の子だったが、病院における割礼の途中で起きた不慮の事故によってブルースはペニスを失ってしまう。ブルースは当時性科学の第一人者として知られていた医師ジョン・マネーの勧めにより、生後22か月で性転換手術を受け、ブレンダという名の女児として育てられることになる。かねてよりのマネーの仮説は、すべての子どもは生後少なくとも2年間は性自認(自分はこの性であるという意識)が確定しておらず、外見上の性別と育児上の性別を一致させればその子は問題なく男性としてでも女性としてでも与えられた通りの性に適応して育つことができるというものであり、ブルースとブライアンの双子のケースを利用して自説を証明しようと考えていたのだ。マネーはその後、ブレンダはごく普通の女性として生活しており、ブルースをブレンダとして育てる試みは成功であったと大々的に発表した。それにより、ペニスに異常を持って生まれたインターセックスの男の子たちに性転換手術を行い、女児として育てるといった医療も正当化されたかのように見えた。

ところが80年代になって、ハワイ大学のミルトン・ダイアモンド教授らがブレンダの件を追跡したところ、ブレンダは思春期を通して「女の子」として扱われることに抵抗したばかりか、14歳になって親から自分の出生の真実を告げられて以来、自ら名前をデイビッドと改め、元の通り男性として生きていることが明らかになった。この現実を認めないために、この一家は一切引っ越しをしていないにも関わらず、マネーは「その後この家族との連絡はとれなくなった」と報告していたことも分かり、彼の権威に大きな傷が付くこととなった。また、性自認は恣意的に操作できるものであるという説が否定され、生物学的に決定されているとか、少なくともかなり早い段階で固定されているのではないかという説が力を増した。[1]

しかし、それだけ理解しただけでは、本書を読んだことにはならない。マネーが主張していた説が間違っていたこととか、彼が自分の間違いを隠蔽するために目の前の証拠を無視したことだとか、それらは確かに彼の科学者としての資質に疑問を抱かせる重大な問題だが、マネーの間違いはそれだけではない。本書を読めば分かる通り(また、マネーのチームから医療を受けたインターセックスの人たちの体験談を読めば分かる通り)、マネーは性に進歩的な考えの持ち主であることをひけらかすようにして、幼い年齢のブルース/ブレンダや双子のブライアンにまで、明らかに不適切としか言いようのない性的な質問をしたり、ポルノを見せたり、医療という口実で触ったりしている。それをブルース/ブレンダとブライアンが嫌がっていた証拠に、マネーが彼ら一家を訪れると、ブレンダとブライアンは競い合ってマネーに見つからないように隠れたという。仮にマネーの仮説が正しく、ブレンダが今も女性として生きることに満足していたとしても、このような扱いは双子の双方に大きな精神的トラウマを与えていただろう。仮説の是非に関わらず、医者として決して認められる行為ではない。

そして、同じ問題はインターセックス医療についても言える。インターセックスの子どもの性器を恣意的に切り刻むのが間違っているのは、ただ単に「間違った性別を与える危険があるから」ではない。それが医学的に不必要であり、多くの精神的・身体的・性的な副作用があり、何よりも当人の自己決定権に反するからである。そもそも、与えられた性別・身体的な性別と性自認がくい違うトランスジェンダーの人(もしくは性同一性障害の人)なんていくらでも存在するわけで、たまたま与えられた性別と本人の性自認が合致しない子を持つことをそんなに最悪の事態であるかのように考えるのはおかしい。マネーが責められるべきは、彼の非倫理的な「医療」行為そのものについてであり、「もともと正常な男の子だったのに、マネーの間違った理論のせいでトランスジェンダーのようにされてしまった」事を一番の悲劇と考えるのは、トランスジェンダーの人たちに失礼である。

ブルース/ブレンダのケースを元にした、ジェンダーは生物学的に決定されるか社会的に構築されるかなどという議論は聞き飽きた。よくある書評に見られるように、もしこの本の読者がその程度の感想しか抱けないのだとすると、彼らはブルース/ブレンダの身体を勝手に利用してジェンダーについて解き明かそうとしたマネーと共犯関係にあると言うのは言い過ぎだろうか。これから本書を読む読者は、ジェンダー論に類する部分は読み飛ばしても良いから、マネーによる「医療」行為が幼いブルース/ブレンダに、そしてブライアンにどのように見えたか、どのように経験されたか、という部分に注視してほしい。それは、多くのインターセックス当事者の経験とかなりの範囲で共通している実体験である。

(文責: EK - Intersex Initiative)

[1] マネーの実験が失敗に終わっていたことが明らかになって以来、「性自認は生まれつき決定されている」との説が有力となっているが、これにも反例は存在する。例えば、Bradley SJ, Oliver GD, Chernick, AB, Zucker, KJ (1998). "Experiment of nurture: Ablatio penis at 2 months, sex reassignment at 7 months, and a psychosexual follow-up in young adulthood." Pediatrics, 102(1): e9. によると、ブルースと同じく割礼時の事故でペニスを失った男児が手術を受けて女児として育てられた例で、ブルースとは逆に26歳となった今も普通の女性として生活している(性自認が女性である)人もいる。そもそも、一般性があるとは言えないたった1つの症例を自説の証拠と主張したマネーがおかしいのだが、ブルース/ブレンダの一件のみを根拠に「性自認は生まれつき決定されている」と主張する人も同じ間違いをおかしているのではないか。